AI時代の要件定義の入り口
――整った資料に潜む「顧客の暗黙知」の引き出し方
「作りたいものは、頭の中にあるのですが」
要件のヒアリングの最初に、顧客からこう言われることがあります。「作りたいものは、頭の中にあるのですが、うまく説明できなくて」。
説明できないのは、顧客の怠慢ではありません。構想はあっても、それを業務の言葉やシステムの言葉に置き換えた経験が、ないだけです。「新規事業の要件定義、何から手をつけるか――存在しない業務は、こう生み出す」でお伝えしたとおり、顧客の頭の中にある、まだ形になっていない構想を、SEが一緒に形にしていく場面は少なくありません。
ところが最近は、この最初の一歩が変わってきました。AIに相談して、自分なりに整理した資料を用意し、ヒアリングに臨む顧客が出てきたのです。AI時代の要件定義は、こうした資料を受け取るところから始まります。今回は、その入り口で、SEが何を確かめるべきかを考えます。
顧客は、AIで構想を整えてくる
顧客がAIを使うことは、SEにとっても歓迎すべきことです。AIは、顧客にとって良い壁打ち相手になるからです。
1つ目は、頭の中を先に整理できることです。作りたいものを文章にしようとすると、自分が何を決めていて、何を決めていないのかが見えてきます。
2つ目は、システムの言葉が分からなくても質問できることです。SEとのヒアリングで、「マスタの管理方法を決めてください」「他システムとの連携方式は、どうしますか」と言われても、意味が分からず、聞き返せないまま進んでしまうことがあります。AIになら、「マスタとは何ですか」と、気軽に聞けます。
3つ目は、何度でもやり直せることです。言い方を変え、順序を変え、思いつくたびに足していく。構想を、SEの時間を使わずに育てることができます。
何もない状態から聞き出すのと比べれば、構想が少しでも言葉になっているだけで、ずっと早く本題に入れます。
整った資料に、書かれていないこと
ただし、注意しておきたい点があります。ある機械部品の卸会社で、営業事務の責任者の方が、AIと相談しながら作った資料を持ってこられたことがありました。題名は「次期受発注管理システム」。A4で5枚、見積から受注、出荷指示までを一元管理したい、という内容で、項目ごとに整理され、読みやすい文章でした。
一読して、よくできていると思いました。しかし、ヒアリングで話を聞いていくうちに、書かれていないことが次々に出てきました。得意先ごとに掛け率が違うこと。特急品だけは特別な単価を使うこと。見積の有効期限が、品目によって違うこと。どれも、その会社の見積業務の核になるルールでした。
責任者の方に、資料に書かれていなかった理由を尋ねると、「いや、気が付きませんでした」という答えでした。
これは、責任者の方の怠慢でも、AIの責任でもありません。本人が意識していない業務の知識、つまり暗黙知だったのです。
さらに、整った文章は、完成した印象を与えます。抜けがあっても、本人も気づきにくくなります。
暗黙知は、AIにも書けない
掛け率や特急品の単価は、責任者の方が毎日使っている知識です。ただ、毎日使っているからこそ、頭の中で当たり前になり、「ルール」として意識されなくなっています。「普段どうしていますか」と聞かれても、言葉になって出てくるとは限りません。
AIとの壁打ちでも、同じことが起こります。AIは、その会社の業務の具体的な場面を知りません。そのため、一般的な質問をします。顧客は、自分が意識している範囲で、その質問に答えます。意識していない知識は、AIに聞かれても答えられず、自分から書くこともありません。暗黙知は、AIが整理しても、AIが質問しても、出てきにくいのです。
また、AIで整えた文章からは、顧客の迷いや不満も削がれがちです。「この作業は面倒で、できれば無くしたい」といった率直な気持ちは、「要求のヒアリングで漏れる本音――それこそが、要件定義の鍵」でお伝えしたとおり、要件定義のヒントになります。整理された文章の中では、それが見えなくなります。
だからこそ、暗黙知を引き出すのは、SEの役目になります。ただし、SEがその業務を知っているとは限りません。むしろ、知らないからこそ、顧客が当たり前だと思っていることを、素朴に尋ねることができます。SEが持っているのは、その業務の知識ではなく、暗黙知が潜みやすい場所への見当です。例外的な扱い、特別な単価、期限、締めといった場所は、業種が違っても、多くの案件で出てきます。
暗黙知は、場面と現物から引き出す
では、SEはどうすれば暗黙知を引き出せるのでしょうか。私が意識しているのは、次の五つです。
1つ目は、場面を示して聞くことです。「例外的な扱いはありますか」と抽象的に聞いても、答えは出てきません。業務を知らなくても、どの業種にもある場面なら、示すことができます。「急ぎの注文が入ったときは、どうなりますか」「新しい取引先が増えたときは、どうしますか」「月末は、普段と違いますか」。場面を示すと、本人が思い出して話し始めます。
2つ目は、最近の特別な対応を聞くことです。「先月、いつもと違う対応をしたのは、どんな場面でしたか」と尋ねます。例外対応の中に、普段は意識されないルールが、そのまま現れます。
3つ目は、現物を見せてもらうことです。いま使っている見積書やExcel、帳票には、手書きの注記や、使われていない列、色分けなどが残っています。それぞれに「これは何のための項目ですか」と尋ねると、資料には書かれていなかったルールが出てきます。
4つ目は、人が入れ替わる場面を想像してもらうことです。「新しい担当者が入ったとき、最初に何を教えますか」「ベテランの方が急にいなくなったら、何が困りますか」。本人にとっては当たり前の知識ほど、この質問で出てきます。
5つ目は、別の人に聞くこと、そして後日、言い回しを変えて聞き直すことです。暗黙知は、人によって意識している範囲が違います。責任者の方が当たり前だと思っていることを、実際に見積を作っている担当者や、見積を受け取る側の部署が、別の角度から話してくれることがあります。また、ヒアリングの場で出てこなかったからといって、ないとは限りません。「掛け率は決まっていますか」と聞いて出てこなかったことが、数日後に「得意先から値引きを頼まれたとき、どう答えていますか」と聞き直すと、出てくることがあります。時間を置くと、本人が思い出すこともあります。一度のヒアリングで聞き切ろうとせず、人と日を変えて、何度か聞くつもりで臨みます。
資料の言葉から、空白を見つける
場面を聞く前に、資料の読み方も大切です。AIが整えた資料は、読みやすいぶん、空白が見えにくくなっています。私は、次の三つに印をつけながら読みます。
1つ目は、「すべて」「いつも」「基本的に」といった言葉です。「すべての得意先に対応したい」と書かれていれば、「すべての得意先は、同じ掛け率ですか」と確認します。一般化された表現の裏には、例外が潜んでいます。
2つ目は、数字や固有名詞が出てこない箇所です。「見積の有効期限を管理したい」とあれば、「有効期限は何日ですか。品目によって違いますか」と聞きます。具体的な値が書かれていない箇所は、決まっていないか、本人が当たり前だと思っているかのどちらかです。
3つ目は、工程と工程の間です。「業務フローは、本当に『流れて』いるか――つなぎ目を、見落とさない」でお伝えしたとおり、受け渡しの頻度や、渡した後の変更は、資料に書かれないことが多い部分です。「見積から受注までは、どのタイミングで、何を引き継ぎますか」と聞いてみます。
さらに、整った文体では、要求と要件が同じ調子で並んでいることがあります。「在庫を一元管理したい」という要求と、「入庫から1時間以内に在庫に反映する」という要件が、並べて書かれている、といった具合です。「要求と要件を分ける意味」でお伝えしたとおり、この二つは分けて扱わなければなりません。資料を読むときに、どちらの段階の記述なのかを、一文ずつ見分けておきます。
顧客にも、お願いしておくこと
顧客がAIを使うことは、これからも増えていくと思います。そのうえで、SEとしては、次の三つをお願いしておくと、ヒアリングが進めやすくなります。
1つ目は、最近の特別な対応を思い出して、書き出してもらうことです。いつもと違う扱いをした場面を書き出すと、普段は意識していないルールが見えてきます。
2つ目は、AIの質問に答えられなかった箇所を、消さずに残してもらうことです。「分からない」「決めていない」と答えた部分は、ヒアリングで確認すべき、大切な論点です。
3つ目は、迷いや不満も、資料の中に残してもらうことです。「ここは面倒」「ここは不安」といった一言が、あとで要件の背景になります。
まとめ
AI時代の要件定義は、顧客がAIで整えた資料を受け取るところから始まります。AIは、頭の中を整理できる、システムの言葉が分からなくても質問できる、何度でもやり直せるという、良い壁打ち相手です。
一方で、AIで整えられた資料は、整っているからこそ、完成したように見えます。抜けるのは、顧客自身が意識していない暗黙知です。毎日使っているルールほど、本人には当たり前になり、AIに聞かれても答えられず、自分から書くこともありません。
暗黙知を引き出すのは、SEの役目です。業務を知らない立場だからこそ、素朴に尋ねることができます。場面を示して聞くこと、最近の特別な対応を聞くこと、現物を見せてもらうこと、人が入れ替わる場面を想像してもらうこと、別の人に聞くこと、後日、言い回しを変えて聞き直すこと。そして、資料の中の「すべて」「いつも」といった言葉や、数字が出てこない箇所、工程と工程の間に、印をつけながら読むこと。この積み重ねで、整った資料の空白が見えてきます。
顧客には、最近の特別な対応を書き出すこと、答えられなかった箇所を残すこと、迷いや不満も残すことをお願いしておくと、ヒアリングがより実りあるものになります。