大学病院での「たらい回し」に学ぶ、要件定義の本質

――現場を、巻き込むべき理由

大学病院での「たらい回し」に学ぶ、要件定義の本質

家族の入院で、経験したこと

これは、つい最近、私自身が経験した話です。

家族が入院することになりました。初めての経験で、勝手が分かりません。学校から、保険関係のために提出が必要な書類が何枚か渡されました。

正直、戸惑いました。これらの書類は、いつ、誰に提出すればいいのか。少なくとも、担当医や看護師に聞くことではないだろうと想像はつきます。そこで、病院の文書担当窓口に尋ねてみました。

いくつかの書類は、その場で受け付けてもらえました。しかし、「これは薬局の窓口に持っていってください」と言われる書類もありました。薬局を探して提出すると、今度は「これは入院担当の窓口です」と言われます。入院担当の窓口に持っていくと、そこにいた方は困った様子で、少し離れた場所にいた、一見してベテランと思われる事務担当の方に確認しに行きました。そこでようやく、問題は解決しました。

たらい回しにされた、という体験です。


不満を言う話ではありません

この話を、病院への不満として書いているわけではありません。大きな病院であれば、こうしたことは、実際にはよくあることなのだろうと思います。

私が注目したのは、要件定義の視点から見たときに、この出来事が何を示唆しているか、という点です。

これだけの規模の病院であっても、書類の提出先を案内するための業務が、きちんとマニュアル化されていない。そして、その業務の全体像は、ベテランの事務担当者の頭の中にしか存在していない。これは、第3回でお伝えした「暗黙知」の、非常に分かりやすい実例だと感じました。

文書担当、薬局、入院担当——それぞれの担当者は、自分の持ち場の業務は理解しています。しかし、患者が必要な書類全体の流れ、つまり「誰が」「何を」「どこに」提出すべきかという全体像は、誰か一人の頭の中にしか、体系立てて存在していませんでした。


現場は、気づいていないわけではない

私をたらい回しにした文書担当、薬局、入院担当の方々は、悪気があったわけではありません。それぞれ、自分の担当範囲では、きちんと仕事をしていました。「これは自分のところではない」という判断も、ある意味では正しい判断です。

ここで注意したいのは、彼らが「この案内の仕組みには問題がある」ということに、まったく気づいていなかったとは限らない、という点です。日々似たようなやり取りを繰り返していれば、「またか」「分かりにくいな」と、薄々感じている可能性は十分にあります。

しかし、仮にそう感じていたとしても、それを改善のために動かす立場や権限を、彼らは持っていないと思われます。「気づいてはいるが、動けない」という状態は、「まったく気づいていない」状態とは、性質が異なります。

あの場を解決してくれた、ベテランの事務担当の方は違いました。長年の経験から、全体の流れを把握し、改善の必要性についても考えたことがあったかもしれません。


現場を、巻き込まなければならない理由

第3回で、暗黙知は「聞かれなければ出てこない」という話をしました。今回の話は、その一歩手前にある、より根本的な問題を示しています。聞く前の段階で、「誰に聞くべきか」という選択そのものが、要求の質を左右するということです。

ここで、「では、全体を俯瞰できる管理者にだけ話を聞けばいいのではないか」と考えてしまうかもしれません。しかし、それは違います。

管理者は、業務の全体像や、部署をまたいだ流れを把握しています。しかし、現場で日々発生している細かい例外対応や、「いつもこうしているけど、実はこれでいいのか分からない」というグレーな運用——こうした情報は、現場の担当者の中にしか存在しないことがほとんどです。今回の手続きの件で言えば、案内の仕組み全体を変える権限は、一般的に現場にはないと思われますが、「こういうケースで、患者さんが困っている」という具体的な例外は、管理者よりも現場のほうが詳細に把握していたはずです。

つまり、管理者からは「全体の構造」が、現場からは「具体的な例外」や「実際の運用の実態」が引き出せます。どちらか一方だけでは、要件定義に必要な情報は揃いません。

ただし、ここには例外もあります。管理者の中には、現場を長年経験してきた、あるいは今も現場感覚を保ち続けている人もいます。「現場を知り尽くした管理者」であれば、全体の構造と、現場の具体的な実態の両方を、一人で語れることがあります。

だからこそ、「役職が管理者だから」「現場の担当者だから」という肩書きだけで、聞ける情報の質を決めつけるのは危険です。実際にその人が、日々の現場でどこまで手を動かしているか、どれだけ現場の細部を知っているかを、ヒアリングの前に見極める必要があります。同じ管理者でも、現場から離れて久しい人と、今も現場に近い人とでは、引き出せる情報がまったく異なります。


これは、ステークホルダー分析そのものです

これは、第3回でお伝えした「ステークホルダーの網羅漏れ」の問題と、本質的に同じ構造です。

「誰に話を聞くか」を決める段階で、「効率的に全体像を把握したいから」と管理者クラスへのヒアリングだけで済ませてしまうと、現場にしかない暗黙知や例外を、丸ごと見落とすことになります。

ヒアリング対象者を選定する際は、「この業務を日常的にこなしている人」「この業務を俯瞰して見ている人」「改善のための権限や裁量を持つ人」を意図的に含めることが重要です。そして、それぞれの対象者が、実際にどこまで現場の実態を知っているかを、肩書きだけで判断せず見極めることも、同じくらい大切です。


「たまにあること」を、放置しないために

今回の手続きの件も、病院にとってはおそらく「たまにあること」として、これまで見過ごされてきたのだろうと思います。現場が薄々気づいていたとしても、それを組織として改善に結びつける仕組みがなければ、放置されたまま時間が経っていきます。

システム開発の現場でも、同じことが起こります。「たまに聞かれる問い合わせ」「たまに発生する例外対応」は、日常業務をこなしている担当者にとって、取るに足らないこととして扱われがちです。しかし、その「たまに」が積み重なれば、利用者にとっては大きなストレスになります。

ここで、システムの技術とは関係のない、話しやすい場を作るという工夫の大切さにも触れておきます。「気づいてはいるが、権限がなくて言えずにいたこと」を引き出すには、質問の角度を変えるだけでは十分でないことがあり、率直に話してよいと感じられる雰囲気そのものが必要になるからです。

たとえば、上司や管理職が同席する場では、現場の担当者が本音を話しにくくなることがあります。現場の担当者だけで話せる場を意図的に設けることで、それまで出てこなかった話が、驚くほど自然に出てくることがあります。

こうした場作りは、要件定義のスキルというよりも、対人関係やコミュニケーションの技術に近いものです。しかし、どれだけ優れた質問を用意しても、話しやすい雰囲気がなければ、その質問は機能しません。

具体的な工夫のひとつとして、ヒアリングの冒頭を、業務そのものの話からではなく、現場を和ませるような雑談から始めることも大切です。天気の話でも、最近の業務の様子を軽く尋ねる程度でも構いません。いきなり本題に入るよりも、少し場が和んだ状態で本題に移るほうが、相手の緊張がほぐれ、率直な話が出やすくなります。

誰に聞くかという選定と同じくらい、どんな場で、どんな空気の中で聞くかということも、要求を引き出すための重要な要素なのです。

「困っていることはありますか」という問いだけでなく、「これまでに、想定外の対応をしたことはありますか」「もし自由に変えられるとしたら、変えたい部分はありますか」といった、角度を変えた問いを立てることも有効です。最後の問いは特に、「気づいてはいるが、言えずにいたこと」を引き出すきっかけになります。


まとめ

大学病院での、書類のたらい回しという体験は、要件定義における重要な教訓を含んでいました。大きな組織であっても、業務の全体像がマニュアル化されておらず、暗黙知が特定の個人の頭の中にしか存在しない、ということは珍しくありません。

現場の担当者は、必ずしも「気づいていない」わけではありません。気づいていても、それを改善に結びつける立場や権限を持っていないだけかもしれません。だからといって、管理者だけにヒアリングをすれば効率的というわけでもありません。現場にしかない暗黙知や例外は、現場を巻き込まなければ引き出せないからです。

一方で、管理者の中にも、現場を知り尽くした人はいます。肩書きだけで判断せず、その人が実際にどこまで現場の実態を知っているかを見極めることが、誰に話を聞くかという選定と同じくらい重要です。そして、誰に聞くかと同じくらい、どんな場で、どんな雰囲気の中で聞くかということも、率直な要求を引き出すためには欠かせません。


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